読書「ゼロ秒思考」
文献情報
- 書籍名:ゼロ秒思考
- 著者:赤羽雄二
- 出版社 : ダイヤモンド社; 第1版 (2013/12/19)
- 引用部分は引用っぽくしてます。
雑に要約
考える速度をあげるには?
- とにかく、頭の中身を書き出すこと
どのように書き出す?
- 思いついたことをそのままメモする
- 難しいことは考えない
- ぼかさず、感情のまま文字に起こす
- 例えば、「部長に怒られてムカついた」「英語力を伸ばすには?」
- A4用紙に、タイトル/日付/内容(20-30文字*4-6行の箇条書き)、1タイトル1枚、1枚1分以内、1日10枚
- 図が必要なら追加
- 掘り下げられるところは、箇条書き項目をタイトルにしてもう一枚
- 思いついたらその場で書く
- 似たタイトルでも、前に書いた気がするタイトルも、新しく書く
溜まったら?
やってるうちに
- 思考速度が加速する。目指せ0秒思考マスター。
メモ
- 「メモの方法」が本中に五億回くらい出てきた。大事なことなので五億回言いました。
- やってみるかーって気にはなった。
- Amazonレビューで酷評が目立ったがどうなんだろ?
- 「何を今更、メモなんか既にやってるよ!」って人いた、効果は人によるのか
- 「ゼロ秒思考」でAmazon検索すると、文中で紹介された筆者ご愛用のペンが出てくる笑
パイロット 水性ボールペン Vコーン LVE-10EF-B 10セット ブラック
- メディア: オフィス用品
読書「イシューからはじめよ――知的生産の『シンプルな本質』」
文献情報
雑に要約
まず、質の高い仕事=バリューのある仕事とは?
- 「イシュー度の高い課題」に対して「質の高い解」を出すこと
- イシュー度:自分のおかれた局面でこの問題に答えを出す必要性の高さ
- 解の質:そのイシューに対してどこまで明確に答えを出せているかの度合い
- 手当たり次第試して質の高い仕事を目指す=犬の道はNG
まず、「イシュー度の高い課題」の見分け方は?
- 「実際にインパクトがあるか」「説得力あるかたちで検証できるか」「想定する受け手にそれを支えられるか」の判断が必要
- 経験が浅い段階では、見極めが難しい。聞ける人を作っておくことが重要。
そのための方法は?
前倒しで具体的な仮説を立てる
- 仮説を立てることで、本当に必要な情報や必要な分析がわかる
- 検証した場合に、出た結果が十分かどうか判断できる
仮説まで立てたら、「自分がそのイシューをどのようにとらえているのか」「何と何についての分岐点はっきりさせようとしているのか」を言葉で明確にする
- 明確になっていない部分がわかる
良いイシュー3箇条
- 本質的な選択肢である
- 深い仮説である
- 答えを出せる
次に、良いイシューの見つけ方
- テーマ・対象について、時間をかけ過ぎずに大枠の情報を集め、対象の実態についての肌感覚をもち、全体としての流れ・構造に着目する
- 一次情報に触れる
- 基本情報をスキャン
- 集め過ぎない
では、「解の質」を高めるには?
- イシューを分解し、構造を明確にしてストーリーを作る
- 結論スライドの絵コンテを作る
- 「最終的に伝えるべきメッセージ」を考えたとき、自分ならどういう分析結果があれば納得するか、相手を納得させられるかと考える
準備できたら
- 絵コンテをもとに検証する
- 順番:「前提」が先、その後は早く終わるものから
- 期待する結果が出ない:なんとしても答えを出す
最後に資料作成
- 用意した資料でリハーサルを行う
- 聞き手は、無知だが高度な知的生命体という前提を忘れずに作成
- 理想は、「受け手が語り手と同じように問題意識をもち、同じように納得し、同じように興奮してくれている」
- とにかく、自分のアピールではなく伝わることが重要
メモ
HOWTO
- 全体としてコンサルよりな内容なので、直接エンジニアの仕事に生かせるかわからない
- ただし、細かなテクニックは生かせそう
- 仮説をたてて行動
- 「受け手が語り手と同じように問題意識をもち、同じように納得し、同じように興奮してくれている」
- 自分が「抱えている問題」を相手に説明するときに、伝え方のHOWTO生かす
- 細かいテクニックを実践していたら見えてくるかも
-「〇〇をどうしたら良いかな」といったオープンな問題提起に対しては有効かも
- 時間をどれだけ使えるかわからないけど
読書「嫌われる勇気」
文献情報
雑に要約
そもそも
- 今の「わたし」の状況に、過去は関係ない。「過去に〇〇があったので今こういう状況です」は言い訳。
- 「今の悪い状況」は、なんらかの目的を持った「わたし」が、意思を持って作出している。
- 今の「わたし」の状況に、未来も関係ない。未来なんて誰にもわからない
- 「過去」「未来」は変えられない
- 変えられるのは「今」この瞬間のみ。「いま」だいじに。
まず
- 「わたし以外」と関わる必要があるため、「わたし」は「わたし以外」と切れない。
- でも、「わたし」を「わたし以外」がどう捉えるかは、「わたし」にはどうしようもない。→変えられない
- だから、「わたし以外」にどう思われるか考えるだけ無駄。「わたし以外」全員に好かれるのは無理。
- だとすると、自分が正しいと思ったら、正しい、以上。
- そこで、「嫌われても構わない」と捉える、そう捉えるように変わる勇気 is 大事。
なので
- 人は共同体感覚を得られたときに幸福。共同体感覚 is 「ここにいてもいいんだ」感。自分の価値実感したときに得られる。
- そのために、まず、「わたし」について、「ありのままのわたし」を受け入れる。できないことがあっても、できない自分を受け入れる。
- 次に、「わたし以外」について、無条件に信じる。疑っていたら「ここにいてもいいんだ」感得られない。
- 最後に、「わたし以外」に貢献する。貢献できた=役に立った=自分の価値実感
そして
- これらの心理的/肉体的行為は「わたし」次第で自由に選択可能。→変えられる
てことで
- 上記指針に添うように「いま」を真剣に生きたら、幸福になる。
まとめ
- 変えられないことに、悩む/考えるだけ無駄。変えられることに集中しよう。
- そのためには、「変えられること」と「変えられないこと」を見分ける眼力も必要
- 「過去」「未来」を変えることはできない
- 「わたし以外」を変えることはできない
- そして、集中の指針は、共同体感覚を得んとす、こと。
メモ
与えられたものをどう使うか
『大切なのはなにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである』
- だとすると、一見「どこに進学するか」「どこに就職するか」が意味をなさなくなる気がする。
- どこに進学/就職しようが、「そこ(与えられたもの)で何をするか(どう使うか)」だから
- 「与えられるもの」と「自ら獲得するもの」を分けて考えているのか?
- それとも、前提として何を与えられ得る環境に自身を置くかを選択できることが「与えられ」ていて、その選択権を「どう使うか」と捉えるべき?
課題の分離
『馬を水辺に連れて行くことはできるが、水を呑ませることはできない』
- 子供の判断力がない場合は?
- 責任能力、判断能力がない場合、「援助する用意がある旨を伝える」だけでは足りないことがあるのではないか?
- 未成年飲酒/喫煙がダメなのは、「(場合によっては成人以上に)健康に影響があることを未成年は正しく認識できない」と捉えているから。
- その場合も、「この行為しなさい/してはいけない」ではなく「この行為をする/しないと、このようなメリットを享受し得るよ」と伝えるところまでにとどめるべきと理解。
- 子供に結婚式開いて欲しい場合は?
- 「開いてくれたら嬉しい」旨を伝えるにとどめるべきと理解
- ちょっと、整理しきれてないけど。。。
人が他者をほめるとき、その目的は「自分よりも能力の劣る相手を操作すること」なのです。
- 「TOEIC900点とったの?すごい」とかって操作することが目的なのか?
- 肯定説:ほめることで自身への対応を変化(好転)させようとしている
- 否定説:「TOEIC900点がすごい」は社会の共通認識。「空が青いね」って言っているようなもんで「ほめる」に当たらない。
その行為が『よい』のか『悪い』のかを決めるのは、他者の物差し
- でも、「よい」「悪い」が社会の共通認識なことあるよね。
- 社会の物差しはどう考えたらよいのだろう?
- あ、違うか。「人を殺す」行為を外からみたら「悪」だけど、行為者にとっては「善」だったという議論と関係ありか。
ありのままの自分による対人関係を回避しようと
- 結果として、ありのままの自分を笑われたくない。自信ないのを隠すことで「実際のありのままの自分はもっとすごい可能性があるぞ」の逃げ道を残していると理解
共同体感覚
例え家族から「ありがとう」の言葉が聞けなかったとしても、食器を片付けながら「私は家族の役に立てている」と考えてほしい
- 無理だろ...。そう考えるように考えを転換する勇気を持てたら良いねってことなんだけど...
- できたとしても「自己犠牲」感が出てしまうと思う。
- 他者貢献と自己犠牲の差がいまいち腑に落ちない。
- 他者貢献とは、「わたしを捨てて誰かに尽くすことではなく、むしろ『わたし』の価値を実感するためにこそ、なされるもの」だとすると、表面上の行為は同じだが、行為の奥にある考え方が異なるということなのか?
- つまり、「自分はしたくないと思っていてやる食器洗い」と、「仲間への貢献と思ってやる食器洗い」では性質が全く異なる。
- 前者は、肯定的な雰囲気出ないし社会に過度に適応した人になってしまう。後者は、仲間への貢献による自身の価値認識が捗る。ということ?
- そもそも、「仲間」と思っていれば「仕方なくやる」という発想が生まれない?
「いま、ここ」大事に
毎日少しでもいいから、数式を解く。単語を覚える。つまりはダンスを踊る。そうすると、そこには必ず「今日できたこと」があるはずです。今日という1にちは、そのためにあったのです。決して遠い将来の、受験のために今日があるのではありません。
それは「どうなりたいかという未来像のためのある種の準備」に過ぎないのでは?その未来像がなければ真剣も深刻もない気がする。どんなダンスをするかもわからないと思う。それとも、「未来にこうなりたい」と考えるのではなく、「今こうしたい、でもそうなっていない、この差を埋めるためには何が必要か」を考え行動すべきということ?でも、そうすると「計画」をどう捉える?計画的行動はなんだろう?「刹那に真剣」を言葉通りに受け取ると、極端な話「寝食NG無限ダンス超絶ブラック企業プレイ」することが真剣とも言えるが、、、
- 👆違う。未来の存在は否定しない。「未来にこうなりたい」はある。けど、それが大きすぎると一歩も動けなくなっちゃう。だから「今できること」に集中して、一歩ずつ進んでいく。一歩上手くいけば二歩目につながる。小さな成功体験なら継続できる、結果的に真剣に取り組んだ「過去」と結果としての「未来」が築ける、と腑に落ちた
- ※この辺から「青年」がエモくなっていく